岐阜関カントリー倶楽部について
倶楽部の歴史
それがなんであれひとつの歴史が創られるところには必ず、始めにすぐれたフロントランナー(先駆者)
がいるものだ。
昭和37年頃のある正午過ぎ、45歳前後の二人の男性が、長良川CCでの1ラウンドを終わり、
その足でホームコースの岐阜CCでも1ラウンドするため、
桐谷坂付近を移動中だった。
「亀さん、桐谷坂を越さず桐谷あたりにゴルフ場をつくれないものかネ」
「石さん、それはちょっとむずかしいやろ」と、亀さんは熟慮慎重派である。
※以上は、『会報GSCC』40周年記念号掲載の木股健二(後の競技委員長)の文章の再構成
積極行動派の石丸は、翌日から地下足袋を履き長靴を持って、現在岐阜関CCとなっている
桐谷の山林を歩き廻った。
いつからか岐阜CC専属プロ井上清次が同行し始めた。
やがて後藤数次(後に常務理事)が加わり、用地の踏査がほぼ終わった頃、
三人は知名度の高い理事長候補として岐阜日日新聞、岐阜放送社長山田丈夫を迎える。
昭和38年8月30日、母体会社岐阜関開発株式会社を設立。9月10日関カントリークラブ創立総会。
会則を承認、建設委員会を設置。準備は整った。
昭和38年10月15日、18ホールの計画で着工。
設計は東の井上誠一と双璧といわれた、
西の名匠上田治。
7,180ヤード(現在は7,256ヤード)の長大なコースは、全国的な話題になった。
コースレート74.5。昭和39年4月4日、クラブハウスの地鎮祭。設計は山下寿郎設計事務所。
「クラブハウスはホテルではない」が主張で、質素だが高い品格の建物としてつくられた。
昭和39年11月29日、18ホールを仮オープン、約2年間の調整を経て、
昭和41年6月5日、高松宮・同妃殿下を迎え
「関カントリークラブコース」として本オープンした。
昭和42年5月、日本プロセニアゴルフ選手権開催。戸田藤一郎が2位を10ストローク離して、
前年に続き2連勝。
昭和43年9月、9ホール増設を約6ヶ月で完成。設計者上田治の
「27ホールが経営上最も効率的」という助言によるものだという。
昭和43年11月、関カントリークラブを、岐阜関カントリークラブに名称変更。
昭和45年8月、関西プロゴルフ選手権開催。杉原輝雄が戸田藤一郎と接戦、1ストローク差で優勝。
チャンピオンシップコースの規模とグレードを持つコースとして評価が上り、
年毎にナショナルワイドの公式競技開催が増える。
昭和45年11月16日、西コースをクローズして上田治設計による36ホールをめざした増設工事が
始まる。
27ホール完成で経営好調だったため反対論もあったが、初代山田丈夫理事長が
「20年経てば現メンバーは60、70になる。チャンピオンコースだけではきびしい。
楽しく回れる18ホールが必要になる」
という意見が通った。
昭和46年11月、36ホール増設工事完成。西コース6,991ヤード、パー72。
東コースには一歩譲るが、それでもコースレート73.4とタフである。